随分前に「音楽と映像の距離感」なんてエントリーを書いた記憶があるけど、先日とあるプロジェクトのミーティングでその考え方をチラッと述べた。要するに、ある映像に音楽を付ける場合、「映像に必要な要素を吟味して作曲をするか」、「既存の音楽を自分の感性で映像にマッチすると解釈して選曲するか」、両者の間には相容れない隔たりがあるので作曲家は選曲家を超えられないし、その逆も真なりだ、というモノ。
第一に、選曲の素晴らしさは、直感に頼った「いい加減なアプローチ」にあると思う。素晴らしきかな、テキトーな感性w。
テキトーな思いつきで音楽を選んじゃうから何が起こるか全くわからない、予知不可能な化学反応を狙いつつ都合よく反応して価値を生み出してくれれば、これ幸いと自分の糧にして成長する、それが選曲家の成長する道だと僕は思っている(自分もそう育ってきた様なモノ)。
つまり、選曲家はマジメな人は向かない。だって、行く先を誰も何も保証してくれないから。自分の直感や感性に万人が(ディレクターやプロデューサーね、特にw)同調して拍手喝采してくれる保証は何処にもないのだ。仕事としてこんなに曖昧で、いい加減で、脆いモノがあるだろうか?
そしてそんな不安な状態に耐えるには「いい加減なヤツ」でなければならない。「自分の直感が最高だ!」って何の保証もなく信じられる才能が必要だ。音楽を沢山知っているかどうかなんて関係無いケースが多い。
作曲家の場合もある意味同じである。しかし、作曲家、つまり「作家さん」は自分の才能と心中するのが本望なのでマジメでも不真面目でもいい。「映像と音楽の距離感を意識して創造性を高めていけば芸術に至る」、いまでもこの持論は変わらないが芸術(アート)な部分だけで全てのカルチャーは語れない事も確かだ。テレビバラエティー番組などを見ていると、ドラマやドキュメンタリー作品に比べて様々な「いい加減なアプローチ」が見られて面白いのだ。
とある情報バラエティーで「燻製の作り方」が話題なっていた時、バックにはスモーク・オン・ザ・ウォーターがかかっていた。最初は「?」だったが気づいた時はその馬鹿さ加減に感激し、同時に遊び心満載なそのアプローチに大笑いした。この手法はつまり、何かしらの形でその選択肢を正当化できれば「映像のマッチ感と意味合いなんてクソ食らえ!」ってな具合である。なんていい加減な、その潔さは清々しい、ってゆうかもっとマジメにやってください!と言いたい。今だったらちょうどTPPの話題が多いからビートルズのドライブ・マイ・カーなんてどう?流石にそこまでは出来ないか、出来無いよね、ウン。そう、選曲家にはやってはいけないジョークもある。そういった選曲でちょっとした問題になったケースもある。
でもそういった遊びから新しい価値観が生まれるのだ。これは何時の時代も変わらないだろう。でも職業として日常的に作曲をしたりしているとマジメに仕事を熟すようになってしまいがちだ。それはそれで良いことのように思えるが、何処かで何か放電しっぱなしで、どんどん蓄えがなくなっていくような怖さを感じる。
日々、新しい感性や作品に接することはとても重要だ。たとえば、まともに美術館に芸術鑑賞に行かなくとも、普段身の回りにある何気ない風景に注意を向けてみよう。そこには必ず新しい発見がある。たとえば潜在的に選んでいる自分の嗜好を変えてみる。そこには見たこともない味わったことのない体験が待っているかもしれない。Coffee or Tea? いつもはコーヒーだけど、たまには紅茶もいいかな。
遊びは心の糧に繋がる、真剣に遊ぶ事だけには思いっきりマジメでいたいよね。